「大変ご足労をおかけしますが、そういうことですのでよろしくお願いいたします」
「はい、では後ほど」
学校からの電話だった。娘の結衣が部活の学校代表として他県の学校に出かけているのだが、帰りの車が随分遅れてしまうらしい。夜半になったとしても、学校から自宅に個々にお送りすることも、一人で帰すこともできかねるので、お家の方に学校で待機していただいて、一緒にお帰りいただけるようにしたい、とのことだった。
「先生の車で行くから。先輩とあと1人くらいって。一年生なのになんで私かなあ」
朝の娘の言葉を思い出していた。
(要するにお迎えに来てください、ってことよね。部活ってボードゲーム部だっけ?学校代表?あんまり考えないで送り出してたけど)
家からは電車で40分ほどの私立中学には、入学式とその後の授業参観くらいで、あまり行く機会がなかった。普段の学校を覗く良い機会にだわねと外出支度を始めた。
学校の門はいつでも出入り自由、という時代ではなくなった。守衛さんに事情を話して入れてもらう。
事務職員が恐縮しながら案内してくれた部屋には、ドアに〔ボードゲーム部〕とパネルが貼られていた。会議室や応接室に通されるのかと思っていたが、少し埃臭さの漂う「部室」だった。居心地良いとは言えないだろうが、普段の学校生活を覗く、という目的にはかなっていると言えるだろう。
「すみません、こんな部屋で。お茶や雑誌などもご用意しましたので、ご自由にお過ごしいただいて。あ、こちらはサエキさんです。」
フード付トレーナーにジーンズというスタイルで、髪の短い女性が奥に座っていた。今日一緒に行っている子のお母さんということだろうか。彼女は座ったまま、無言で小さく会釈をした。
「初めまして、1年の野口結衣の母です」
「うちは2年です。佐伯マナ。」
「あ、先輩のお母様でいらっしゃるんですね。どうぞよろしくお願いいたします」
自分よりも若そうだなと思う相手に、妙にかしこまって敬語を使い深々とお辞儀をしている自分がなんだか奇妙に感じた。
(先輩のお母様、だって。そんなに偉いわけじゃないのにな。やだ、なんだか、緊張してるわ)
とりあえず、窓際の棚に荷物を置き、彼女の隣に空いていた椅子に座る。
「ボードゲーム部だなんて、何をしてるのかよく知らなくて。今回学校の代表だなんて、ちょっとびっくりしているんです。色々あるんですねえ、これみんなゲームなんでしょう?」
狭い部屋に二人きりでいるのがどうにも辛くて、言葉を重ねてしまう。テーブル周りのスチール棚には様々なサイズの箱が無造作に積まれていた。〔人生ゲーム〕〔モノポリー〕といったお馴染みの名前も見えたけれど、海外の製品なのか見慣れないものが多かった。
「さあ、どうですか。よく知らない。」
「佐伯先輩…マナさん?はゲーム、お強いんですよね。学校の代表なんて」
「わかりません」
なんとも素っ気ない。初対面でも女性同士というのは、無駄話で間を持たすことができるものだと思っていたが、佐伯さんはそうでもないらしい。この人と二人きりでこのままあとどのくらい過ごさなければならないのかが不安になってきた。部室特有のホコリっぽい匂いが強まってきたような気がしてくる。なんとも言えない居心地の悪さに、私は黙ってポットからお茶を注いで、彼女と私の前にコップを置いた。佐伯さんはここでもやはり、軽く会釈するだけで、特に話すこともない。
だが、意外なことに、そんな息の詰まるような沈黙を破ったのは佐伯さんの方だった。
「あれ、知ってますか?ハート」
突然だったので、面食らって何を言われたのかすぐにはわからなかった。
「は?ハート?」
「あそこに掛かっているカバン。あの中、知ってますか」
私の席の後側のスチール棚にフックが付いていて、そこに青いトートバッグが下がっていた。大きなハート形が描いてある。このことだろうか。
「何なんです?」
彼女はすっと立ち上がると、テーブルの横をすり抜けてハートのついたバッグを手にとった。
「これ、将棋です」
「将棋?!」
「時間ありますから、やりますか」
驚いた。何とも可愛らしいバッグの中から出てきたのはハート形をした将棋の駒と盤だった。ピンクと白の40個のハートが、王将やら歩やらの役割をするらしい。
先程まで無愛想極まりないように思えた佐伯さんが、手際よく駒を並べながら、おしゃべりを始めたことが、さらにもう一つの驚きだった。
「これは可愛いですね。ハート将棋です。うちにもあります。マナはこれで将棋を覚えて、いまはとても強い。」
口調を聞いて、少しわかってきた。佐伯さんは日本で生まれて育った人ではないようだ。
「あ、ごめんなさい。将棋できますか。私はこれが大好きなので何だか嬉しくなってしまって」
佐伯さんはそう言って、また小さい会釈をした。
「将棋、あんまりやったことはないんです。でも、やってみたい」
将棋なんて何年ぶりだろう?動かし方もあまり覚えていないけど、オンナノコ心を刺激するこの色と形では、やってみないわけには行かなかった。
「大丈夫です。これは動かし方描いてあるし。王様を動けなくして取ったら勝ち、がルールね」
佐伯さんが初めて笑顔を見せてくれた。
その後の彼女と私の勝負は、大人対子どものようなもので、佐伯さんにとって面白いものであったかどうかは疑わしい。
それでも、何度か勝負をする中で、彼女が中国生まれであること、日本人と結婚したけれど3年前までは家族で上海に住んでいたこと、日本の生活や日本語にはまだあまり自信が持てないでいることなど
を語った。
「中国の将棋は丸い。ルールも少し違う。でも、私はおじいちゃんが教えてくれた日本の将棋が一番好きで、得意です。マナは日本の将棋しか知らない。最近は私よりずっと強い」
どうやら、マナ先輩とうちの娘は、他県での将棋の大会に参加しているらしい、ということもおしゃべりのなかでやっとわかった。
「うちの子が将棋できるなんて、知らなかった!」
と私がいうと、佐伯さんは声をあげて笑った。
「1年生のノグチユイさん、強いから一緒に行ってもらうって言ってましたよ」
白い王様がピンクの金と竜のおかげで動けなくなり、私が何度目かの投了をしたところで、ドアがノックされた。先ほどの事務職員が、もうすぐ娘たちが到着しそうだと伝えてきた。戦績もよかったらしい。帰るなり母から「今日の対局はどんな棋譜で?」などと聞かれたら、結衣は驚くだろうか。
「佐伯さん、マナさんとうちの娘と一緒に夕飯食べて帰らない?女流棋士4人のディナーをしましょうよ」
ピンクと白の兵隊さんたちをハートのついた袋に戻しながら、自宅用に「ハート将棋」を買って帰ることも決めていた。
【ハート将棋物語】〜宇佐木野生(うさぎのぶ)作〜
*作家・宇佐木野生(うさぎのぶ)さんが「ハート将棋物語」を執筆しました。
実際に「ハート将棋」を購入されたお客様からお伺いしたお話をベースにした物語も含まれています。
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